彼は多芸に通じ、若くして首里王府内に入る事を許され、三代の王の御側仕えをしたとされる。楽聖、知念績高に師事し、兄弟子に安冨祖正元がいた。その後、新崎興順からも指導をうけたという。
音曲・囲碁・書道・経学と多彩多芸で教養もあった彼は、尚灝、尚育、尚泰の三王の側に仕え、四十四才のときに「仕上座大屋子」という重要な役職に任命されることとなる。
一八六六年、琉球王府最後の御冠船となった「寅の御冠船」の楽師を任されその功績により「当座敷」に昇進した。
また、尚泰王の命をうけ、高弟の松村眞信とともに、2年余の歳月をかけ「野村工工四」を完成させる。当時まだ難解だった三線楽譜「工工四」をより明確に、よりわかり易く工夫し、結果として三線音楽が、大衆にまで広がっていく土壌を整えた。