首里城から追放された悲運の王子
尚維衡(しょういこう)
1494~1540
古琉球(第二尚氏王朝時代)
黄金時代を築いた名君(15世紀中頃〜16世紀中頃)
尚真王の長男である尚維衡(しょういこう)は、国王と王妃の子として生まれ、将来の国王として期待されましたが、最終的に王位には就きませんでした。その理由について知るには、まず彼の母である王妃のルーツについて説明する必要があります。 尚維衡の母、居仁は、尚宣威王の娘でした。尚宣威王は即位半年後に王位を尚真に譲り隠居しましたが、これは尚真の母・宇喜也嘉(おぎやか)が裏で画策したとされています。ところが尚真が王妃に迎えたのは、宇喜也嘉が排除した尚宣威王の娘でした。 尚真王は1501年に玉陵(たまうどぅん)と呼ばれる王陵を造営し、その碑文に入るべき人物の名を記しましたが、尚維衡とその母の名は記されていませんでした。これは、尚維衡が首里の王家から追放され、玉陵に入ることを許されなかったことを示しています。「球陽」には、尚維衡が父王の怒りを買い、浦添城に隠居させられたと記されています。伝説では、尚維衡が追放された理由は、尚真王の夫人が策略を仕掛け、尚維衡が誤解を受けたためとされています。 伊波普猷(いはふゆう)は、尚維衡の廃嫡問題にも宇喜也嘉が関与している可能性を指摘しています。玉陵の碑文にも、尚宣威王の血縁者を除外する文言が記されています。尚真王の没後、王位を継承したのは五男の尚清(しょうせい)でしたが、明朝から王位継承の正当性を再調査するよう命じられています。歴史書の記述によれば尚維衡は王位を辞退し、尚清が即位したとされています。 尚維衡は、浦添尚家(うらそえしょうけ)の元祖となりました。尚維衡の廃嫡は悲運なものでしたが、彼が元祖となった一族からは、琉球史に多くの偉人が生まれました。