無実の罪を着せられ、自害した奄美大島の首長
与湾大親(よわんうふや)
15世紀後半?~1537年
古琉球(第二尚氏王朝時代)
黄金時代を築いた名君(15世紀中頃〜16世紀中頃)
奄美大島が琉球王国の版図に入ったのは15世紀頃とされています。琉球の歴史書「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」によれば、奄美大島は1266年に初めて琉球の英祖王(えいそおう)に入貢したと記されていますが、これを鵜呑みにすべきではないとされています。実際には、13世紀当時は交易相手としての関係に過ぎませんでした。 15世紀に尚巴志によって琉球が統一されると、次第にその版図は沖縄本島の北にまで拡大しました。1440年代には奄美大島が、1466年には喜界島が琉球の支配下に入りました。しかし、抵抗勢力は次々に発生し、首里王府はその度に討伐軍を派遣しました。その一つとして、与湾大親(よわんうふや)の物語が伝えられています。 与湾大親は尚清王の時代に奄美大島の首長を務めた人物で、その出自については不明ですが、忠孝の人であり島民から慕われていたといいます。しかし、他の首長たちとの間には常に不和がありました。王府の歴史書「球陽(きゅうよう)」によれば、他の首長たちは与湾大親に謀反の意があると王府に訴え、討伐軍の派遣を要請しました。王府はこれを信じ、討伐軍を派遣しました。与湾大親は無実の罪を訴え、自ら命を絶ちました。 与湾大親の息子である糠中城(ぬかなかぐすく)は捕虜として連行されましたが、後に無実が明らかになり、糠中城は王府で役人として働き、黄冠に叙されました。彼の子孫は尚元王の時代に王府高官の三司官(さんしかん)として活躍し、王府を支える名門の一族となりました。 与湾大親の死後も、奄美大島では根強い抵抗勢力が存在し続け、首里王府は討伐を繰り返しました。16世紀の奄美大島は、琉球王国の版図にありながらも、在地の豪族や倭寇勢力が入り乱れており、時に王府に抗う存在でした。与湾大親の物語からは、王府がいかに奄美の支配に苦戦したかを窺い知ることができます。