侵攻する島津氏に王府から派遣された和睦の使者
菊隠国師(きくいんこくし)
 16世紀~1620年

近世琉球 前半(第二尚氏王朝時代)
国難と対峙した人々(16世紀中頃〜17世紀中頃)
1609年3月10日、首里城に飛脚が届けられ、島津軍の船が奄美大島に着岸し、王府軍が敗れたという報告が飛び込んできました。その後、沖縄本島北部の今帰仁にも島津軍の船が到着したとの知らせが届き、国中の人々が家財道具を運び出す騒動となりました。 王府は緊急会議を開き、尚寧王は数年間薩摩に住んでいて島津氏の事情をよく知る菊隠(きくいん)に和睦の使者として島津軍のもとへ行くよう命じました。「琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)」によると、菊隠は老齢と体力の衰えを理由に一度は辞退しましたが、切迫した状況に再度説得され、最前線へと向かう決意を固めました。 菊隠たち和睦の使者は今帰仁に着くと、島津軍の船に乗り、大将の樺山久高(かばやまひさたか)に面会しました。樺山は「和睦の協議は那覇で行う」と伝え交渉は失敗しました。4月1日、島津軍が那覇港に到着し、再度和睦の使者として菊隠たちが派遣され交渉が始まりました。菊隠たちの懸命な交渉により和睦が整い、4月4日に尚寧王は首里城を出ました。 琉球は和睦を実現したものの、尚寧王は島津軍に捕虜として連行され、菊隠や喜安(きあん)も同行しました。尚寧王にとって、日本をよく知る菊隠や喜安の存在は心強かったことでしょう。また、島津氏にとっても、菊隠は重要な人物であり、薩摩滞在中には島津家久(しまづいえひさ)から三司官に任命されています。 約二年半の長旅の間に、尚寧王の弟で摂政(せっせい)の尚宏(しょうこう)が病死し、三司官謝名親方が処刑されるなど、一行にとっては苦難の連続でした。帰国後の菊隠は異例の出世を果たし、摂政に任命され、「球陽国師(きゅうようこくし)」の号を賜り、王子の位も与えられました。国王の血族以外で王子の位が与えられたのは彼が初めてでした。

収録: 絵で解る琉球王国歴史と人物 第3巻