いくつもの改革を推し進め、近世琉球の土台を築いた王
尚貞王(しょうていおう)
1645年~1709年(在位1669年~1709年)
近世琉球 前半(第二尚氏王朝時代)
琉球のルネッサンス(17世紀中頃〜18世紀)
尚貞王(しょうていおう)が即位した1669年は、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が進める改革が行われていました。首里城正殿の再建や国王の久高島参拝の簡略化がその一環です。羽地朝秀の改革が推進できた裏には尚貞王の協力があったことは想像に難くなく、羽地朝秀の葬儀には尚貞王も参列したといいます。その後も尚貞王は改革を継続、1689年には系図座(けいずざ)を設置し家譜(かふ)を作成し士族と百姓の身分制を確立しました。また、蔡鐸(さいたく)に中山世鑑(ちゅうざんせいかん)を改訂させ中山世譜(ちゅうざんせいふ)と名付け、のちに蔡温(さいおん)による再修正を経て琉球史の貴重な史料となっています。 1671年には孔子廟(こうしびょう)の創建が認められています。これは琉球の中国化政策の一環とされています。羽地朝秀の改革の一環として遊女囲いの禁止も行われましたが、朝秀の死後、尚貞王は追放されていた湛水親方を復帰させています。1680年には尚貞王の冊封使派遣を要請し、蔡国器(さいこっき)の機転で清朝の信頼を得たことが功を奏し冊封使派遣も無事に実現しました。 その際、王府は清朝の冊封使に孔子廟を案内し、琉球に対する好意を深めさせることに成功し、官生(かんしょう)と呼ばれる留学生の派遣再開を実現させることができました。