西洋列強の脅威に晒され、多事多難な時代を生きた王
尚育王(しょういくおう)
1813年~1847年(在位1835年~1847年)
近世琉球 後半(第二尚氏王朝時代)
列強の波と王国の落日(19世紀)
尚育(しょういく)は1813年に尚灝王(しょうこうおう)の長男として生まれました。父の尚灝王が精神病を患っていたため、1828年に三司官たちの推挙で王の名代に就きました。そして、1835年に尚灝王の死を受けて正式に即位しました。 尚育王の即位に伴い、冊封の準備を進める必要がありましたが、王府の財政は逼迫していました。富裕層からの資金援助により冊封費用を集め、無事に冊封を終えることができ、余剰金を困窮地域に分配しました。また、朝貢貿易の回数減少という清の勅諭に対して、使者を送り二年一貢の維持を辛うじて認められました。 尚育王は、父王の妻たちによって退けられていた兄弟たちの救済にも尽力し、ほとんどが王子・王女として取り立てられました。また、異国船の来航が増加し、フランスの軍艦アルクメーヌ号の来琉や宣教師フォルカードらの滞在など、薩摩藩や幕府を巻き込む大問題に発展しました。薩摩藩の調所広郷(ずしょひろさと)は幕府と内談し、フランスとの通商を一部許す譲歩を引き出しましたが、琉球の強い抵抗により実現しませんでした。 首里王府は、異国船の来航に対する対応に苦慮しました。フランス人宣教師フォルカードの布教活動を断り、清へ引き取り要請を出してそれが受け入れられても、代わりに他の宣教師が来琉するというような事態が続きました。 尚育王の治世は、異国船との交渉が続く難しい時代でした。35歳の若さで亡くなった尚育王の葬儀では、宣教師たちとの衝突が起きてしまいます。しかしその後も琉球は列強を相手に武力攻撃の口実を与えない外交交渉を続けました。琉球は小国ながらも日本や中国と渡り合い、西洋列強にも対応する能力の高さを示しました。