1609年以降、琉球は薩摩藩の属国として税を納め、中国に対しては従来の冊封体制を維持したので、独立国としての体裁を保ちながら二つの国と藩に支配されるという、一見矛盾した両属体制を270年ほど続けていくことになります。琉球は薩摩に納める重税のために疲弊しますが、その体制下でもなんとか国を立て直そうとする優秀な人材も現れてきます。17世紀前半に活躍した儀間真常は、琉球の気候に適した作物である甘藷を広めて食糧問題を改善し、黒糖の精糖技術や木綿織りの技術を移入し琉球の産業を活性化させました。17世紀後半に摂政として活躍した羽地朝秀は琉球政府の財政を立て直す政策を行い、琉球国初の正史「中山世鑑」を編纂しました。
18世紀前半に13代国王・尚敬が在位した時代は、特に優秀な人材に恵まれていたといえます。哲人宰相と呼ばれた国師・蔡温が尚敬のアドバイザーとして次々と改革・改善の政策を行い、名護聖人と呼ばれた教育者・程順則(名護親方)が日本初の学校を作り、人材教育の体制を築きました。また劇聖・玉城朝薫は東洋のオペラともいうべき琉球独自の芸能「組踊り」を創作しました。他にも和文学者・平敷屋朝敏や、女流歌人・恩納ナビィ、麻酔手術を行った医師・高嶺徳明などが活躍しました。尚敬王の時代は、薩摩進入の痛手から回復しつつ、琉球の文化が高い水準で花開いた第二黄金時代といわれています。