尚巴志の三山統一の背景には、貿易を強力に推し進めて得た経済力がありました。那覇港の浚渫、那覇と首里を結ぶ海中道路・長虹堤(ちょうこうてい)の架橋など、大規模な土木工事を行い、当時浮島だった那覇を商業都市として造り替えてしまいました。また尚巴志には、懐機(かいき)という中国人の参謀がおり、これらの土木工事も懐機の指導があって成し得た偉業だと言われています。さらに懐機は権力の象徴・首里城を築城し、龍潭という人工池を掘って城周辺を見事な公園のように整備したとも伝えられています。
尚巴志と懐機が第一尚王統の基盤を築いたといえますが、尚巴志が没した後は政権が安定せず、30年で5代も王が交代します。さらに統一が成ったといっても、各地の有力な按司はまだ虎視眈々と天下をねらっていたといえます。有名な「護佐丸・阿麻和利の乱」はこういった時代に起こり、勝連按司・阿麻和利の謀略で、忠臣の中城按司・護佐丸が滅ぼされたことになっていますが、事実は歴史の謎とされています。
不安定な政情に加え、王位継承争いなども起こり、第一尚王統は衰退していきます。7代目尚徳王のときに、人民の信望の厚かった役人・金丸(尚円)が、民衆に推されて政権を転覆させ、王座に就いたと言われています。第一尚王統は63年間で幕を下ろします。